さて、あまり僕を暴露しても仕方ないし
ここらでそろそろ煙に巻かないといけないよね。
好きなものはいっぱいあるよ。
その逆が嫌いかというとそうでもない。
確かにこの水準のものがすでにあるのになんでこんなにレベルが低いの、と思うこともあるけれど
別にそれが嫌いというわけじゃないし。
なんだかよく分からないって?
しめしめ。
って言葉を生まれてはじめて使ったかも!
日常会話で出てきたら両手の人差し指だけ立てて卒倒しそう。
そのときはもちろん目がきゅーって寄り目になって口は上の歯だけ見せた状態だよ。
どうどう?
って確認しちゃだめだよね。
なんか「ダメ」と「駄目」と「だめ」ってやっぱり ( やはり ) 違うよね。
ずっと前から考えているのは A から Z まで使った文章。
例えば A 日、B 氏は C 街道を D でみたいなもの。
でも 26 個考えるのはアップロードが面倒でまとめてアップする僕にとってあれでしょう?
とは言ってもゴドーを待っている間に考えればいいじゃんと思うんだけど
そういうときって忘れるんだよね。
あと、こういうときに考えよう。面白いぞ、ってそう考えているときはやる気まんまんなんだけど
いざその時になって思い出してもやる気ないんだよね。
あと僕「じゃん」って使うけれどどう思う?気になる?
そろそろ煙に巻かれてきた?
でも車にひかれた猫のことまだ書いていないものね。
映画を観たり小説を読んだりしていると経過時間や残りページ数で
話が終わりに近づいてきた、って思ってしまうよね。
これってどうなんだろうね。良し悪しだと思う。
「でも車にひかれた猫のことまだ書いていないものね。」を車にひかれた猫のことを書いたとカウントして
もう車にひかれた猫のことを書かないという手もあるよね。
だけど車にひかれた猫。
はじめて死を見たのはいつ?
死という概念がよく分からない子供のときに目の前で猫が車にひかれたの。
車と猫という字は知っているけれど「轢」という字があるとは想像もしなかったくらいの子供の頃。
なんだか怖くてそして不思議だった。
車にひかれた猫は血をどくどく吐いて目は見開いているんだけど何もない空を見つめていて激しく痙攣しているの。
車にひかれた猫だよね。そして死なの。
片目や片腕や片足がない仲間。
でも違うのは痙攣が静かになって死ぬの。
でもまだ温かいの。
それが手の中でだんだんと冷たくなっていくの。
服を血で汚したけれど親は不思議と怒らないの。そして僕の顔を見ないの。
僕は罫線のないノートに「車にひかれた猫」と一行書いてみたよ。
という幼き日の忘れられない思い出が車にひかれた猫を書く理由というのはどう?
本当かどうかは煙に巻かないとね。
本当のことを言うと盗られちゃうから。
本当の自分と嘘の自分。
嘘の自分を 2 つ用意していおいて
嘘の自分 A を常に見せる。
そしてたまに嘘の自分 B を見せる。
そうすることで嘘の自分 B が本当の僕だと思わせることができるよね。
好きだよ。
ぎゅうううううう。