アイヌの人は鮭の骨を爪楊枝にしたし、皮を靴にしたんだって。だから鮭の捨てるところは何もなかったんだって。
ということを聞くと僕も車にひかれた猫の骨で爪楊枝にして皮で靴にしたような気がするよ。いや、あったっけ。ないよね。む、あった気がする。
ないのにあったように思ってしまうから困る。
だからアイヌの人は鮭の骨で爪楊枝にしなかったし、皮で靴にしなかったよ、と思うことにすれば車にひかれた猫で爪楊枝にも靴にも、ってわざわざ何を言っているんだろう?やっぱりしたのか?
そもそもしちゃいけないのか?
突き詰めると分からなくなるよ。
皮を爪楊枝にして骨を靴にした、と思えばありえないから思わなくなるかな。
でも孫楚は石で口をすすいで川を枕にしたそうだし、ありえなくもないのか?
だから漱石も猫の話を?
チャペは秋田やアイヌで「猫」の意味だけどどっちの語源だっけ?チャペはチェシャやシャムやペルシャとは関係ないんだっけ?
それとチャペックは山椒魚とロボットのほかに猫のことも言ってなかったっけ?
もう分からないよ。
生きていることが曖昧なら死ねば死だよね。あー、でも死ねば死んでいるか分からないのか。どうなんだっけ。幽霊になって書いているんだっけ。