幸福論

2023-4-1

幸せか

なんだろうね

アランやラッセル、ヒルティ、須藤元気、椎名林檎の『幸福論』を眺めるに

アンナ・カレーニナの『幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。』と思うよ

ギブかテイクか、内部か外部か

それ以外の領域にある幸せが好き

だから僕はずっと車にひかれた猫のことを書ける

ただ、幸せは大好き

コメントをもらえて僕が幸せになって

僕を幸せにしたことで君が少し幸せになれば僕はまた幸せ

地平線の向こうに一匹の車にひかれた猫を見つけて

そこを目指すときに

目玉だらけで臭くて気持ち悪いし

怒号がサラウンドで高音は耳の奥が痛いし

地震や銃声が止まないから歩きづらいけど

ふとコメントをもらえたなーって思い出して幸せになる

幸せはほかにもいろいろあるけれど

ふとこの幸せを思い出してまた幸せになれる

忘れてても何年かぶりに読み直すと幸せな気持ちは蘇る

その時は思い出としてさらに幸せがプラスになっていたり

すごく小さな幸せなんだろうけど

幸せって大きさじゃなくて

この小さな幸せで生きられるくらいに大きい

そして不幸も小さくても大きいからそれで死んじゃうこともあるように

幸せな不幸と、不幸な幸せもある

69 個列挙略

幸せなときに幸せや不幸なことを考えるとどうなんだろうな

幸せだと不幸を感じるんだろうけど

不幸だと幸せを感じられてお得

部屋にある埃や、外にある砂粒はどれも幸せで不幸

なので自分も

水が水のことを考えるように

あまり意味がなく思えるけど

幸せの定義による

邪悪な幸せや意味のない幸せや不幸からの幸せなど千差万別あるからいろいろな幸福論がある

自分の定義の幸せと他人の幸せの定義が合わない不幸

定義を合わせるには言葉とか

とか、なのは車にひかれた猫は言葉じゃないから

言葉を書いているけど

言葉以外が伝われば

これあげる